(林剛平)すくもの仕込み

仙台 ごうへい

正月の二一日、午後三時、大玉村に着く。たよとゆうきとゆりかと麦と。ナベさん、彦太郎さんが、九年使った鋳物の薪ストーブを据えている。排気の為の煙突は、既に眼鏡石を通り抜け、棟木まで上がっていた。彦太郎さんは、細い鉄骨組みのプラ波板葺の下屋に登り煙突を固定する作業を終えていた。八十を過ぎた方の仕事に驚く。夕暮れが始まり曇り空の雪に覆われた大玉村玉ノ井地区は次第に寒さを深めていた。煙突の先端が棟木よりも低いため、排煙の際に火の粉が飛ぶと、火事の恐れがあることを彦太郎さんと話した。より長い煙突は用意されており、しかも二本を繋ぐジョイント部分は、棟木をかわすように角度をつけビス止めされていた。これを下屋に持って上がるのが一人ではかなわなかった為、簡易に据えていたそうだ。下屋に上がり、煙突を挿げ替えると、実に丁度良く排煙出来るように成った。昨晩、煙突を繋げておいたんだと彦太郎さんは言った。煙突の横引きが一間程度であったため、煙突の縦引きの長さは十分に思われた。早速火を灯し吸気を確認する。午後四時。排気は上手く良き、薪がくべられ始めると、彦ハウスに薪のじんわりしたぬくもりが広がっていく。次は、板を立て部屋を仕切る。番号の振られた板戸を順に台所の壁から抜き出す。今まで気づかなかったが重厚な板戸が収納されていた。ナベさんとあらかた並べると、一ヵ所どうしても入らない板戸がある。すると彦太郎さん、丁度いいツーバイフォーの角材と、長く使いこまれた油圧式の赤いジャッキを持ってきて鴨居を持ち上げはじめた。入ったが、動かない。彦太郎さん、敷居用鉋を持ってきて、板戸上部を削り、すると、求める位置まで動いた。雪の為か西側の部屋に一ヵ所雨漏りがあった。外に出て先日破裂した銅管を、彦太郎さんと共にビニテでがっちり巻き応急処置して水道復旧。薪ストーブのほてりが冷まされ心地よいなとあたりを見る。山は、影色した木の幹と枝が雪の間から見えるこんもりした、お握りみたいだった。いったいいつ振りだろうか、この敷居たちが並べられたのは。よしこさんは、「あはれー懐かしい、このおびと」と言った。彦太郎さん達が暮らしていた時は、いつもの景色だ。みると、板戸は、中ほどに、一尺の正方形のガラスが二枚並んで入っている。この硝子は、彦太郎さんが見通しを良くするために入れたそうだ。「板のままの方が重厚だったんだけれど」と彦太郎さん言っていた。彦ハウスの台所と、炉辺は、雪見障子で仕切られていたのも、この時気付いた。薪ストーブの熱は、硝子は通って伝わるそうで、そうした暖かさへの配慮なのかもとも思う。雪に反射した明かりが入り、戸と障子を入れた彦ハウスは、思った以上に明るい。そして雪と障子の温調湿環境は、相性がいい。えれなさん、はしもさん、ゆうき、豆乳鍋を作ってくれる。彦太郎さん、よしこさんと鍋を食べ酒を飲む。一年間の農作業の行程を一つづつ詰めていく。種まき、去年はトレーに植えたため乾いてしまい大きく育たなかった。トレーに植えた場合は、間に砂を入れる必要があった。今年は地植えに筋蒔きして、覆土しようとなる。移植の際も、膝丈になるまで十分に育てた後、畝立てはしていない畑に植え、後で寄せよう。昨年の、日照りの六月は、五月二九日移植した苗の七割程度を枯らし、後藤さん苗を分けてもらい、くりこまの千葉正一さんまつえさん京子さんに苗を分けてもらった。おかげで、明日多くの参加者と共にすくもを仕込めるだけの葉が収穫出来、今年の種まきにも十分な種を取ることが出来た。草刈り、手でやるところも多々あったそうだ、全て彦太郎さん、よしこさんにやってもらった。今年は、彦太郎さんが考えた、テープソーと板を使った、根元まできっちり草刈り出来る方法をやりたいと言っていた。一番刈り、これは、あまり手間ではなかった。ただ、葉っぱと茎を分ける作業、葉っぱコギは多くの人工を要した。今年は夏の暑い日に茎ごと干して葉っぱを後で分けようとなる。どこに干すか、よりわける方法はどうするかなど、未検討。二一時頃母屋に帰られる。ナベさんと話しているうちに、インドの研吾さんとも電話をはしもさんが繋げてくれ、京都のマイアミとナベさんを繋げてくれと、ことつかる。就寝。

翌朝彦太郎さんからモーニングコール。七時半。朝ご飯を食べ、寅さんが普通でない所は、皆に愛されていることだというような話をしているうちに九時になり、青島さん、ちあきさん、ふみさん、かわちゃん、ひろこさん、かわしまさん、はにゅうさん、後藤さん、続々登場。俵を編むために、藁をすぐる。すぐる作業は、主幹を残し、葉を落とす作業で、半分ぐらいの量が落ちてしまう。その量は、二把で、飛び込んだら気持ちがよさそうなほどの量になった。川島さんが、「すんぐるぶとんって言ってね、この、すぐって出た屑を分厚く床に敷いて包んで敷布にしたの。飛び込むとひとがたにへっこみ、子供心に、わーってなるものだったわ」と教えてくれる。藁をすぐって、縄や敷き物を作ることは、かつての冬の定番だったようで、この作業は陽気に恵まれ大いに盛り上がった。一段落したところで、室内に移り、藍を砕く作業と、俵編みを習う作業、お昼の準備になる。俵を編むための道具は、かつて祖母に聞いたことがある道具であったが、実物を見るのは初めてだった。横糸に七分程度の太さ藁をとり、縦糸はかつては、小手縄という綯った藁であったが、麻糸で代用し、長さは、三尋、本数は六本、四対ある溝に三本づつ設置する。編みを見ているうちに、縦糸で三つ編みをしている感じが分かる。彦太郎さんは、かつて一冬に二〇〇枚の俵を編み、二〇〇対の桟俵を編んでいたそうだ。一日五枚程度、一枚に二時間程度かかったそうだ。昔は米を俵に入れていくと、米代と、俵代が出たからなぁと言っていた。俵の編みは、コモ編み、茣蓙や筵と違い、中の米が漏れないように、横糸なる藁束が前後に収まる最密構造を取る。俵は一俵で一貫の重さになる。一たんぶから、藁が五〇把とれる。堆肥を作るには、ウシの糞を載せ、刻んだ藁を載せるを繰り返し積層していき、その為の木枠もあったなど、話が量と道具を実感を伴い届く。青島さん、川ちゃんが彦太郎さんの前に座り、寺子屋の風情になる。途中から編みは二人に変わり、お昼の頃には大体理解して編めていた。となると、この道具を作りたいとなり、寸法を取っていく。糸をかける溝に在るピンチ機構は、木の固まりに糸をくくる原始的な方法があると聞き、それは祖母に聞いていた方法でもあったので、要は、この道具は高さ一尺で、藁の寸法三尺を長さとした編み機である。ピンチ機構は、縦糸が前後に動くのみで縛ることをしない為、糸に張力を与えるために在る。一本の藁という、小さな要素から面材を造るには、まず縄という張力材を造り、妥当な量を束ね、束間は、また張力により三角形を描き拘束される。これは、タンパクが高次の構造を取るにつれ、機能を獲得していく様に見え、私がやりたい構築は、こういうものだと思う。しかし、同時に土に問う。素材は土から生まれる。昼食。頂いた御餅のお雑煮。焼いてから入れるスタイルだった。午後、千晶さんがスクモつくりに関して説明。「生き物のように育てる。手で触ってみる。」と。スクモの保温容器に関して皆で話し合う。スクモには、イネ科の植物がいいと聞いていたので、編んだ俵にスクモを入れたいと言う。菌についてみんなが話をする。見たことない世界を、でも自身の経験のある発酵を想起しながら、何と似ているか話す。スクモになると、乾燥葉の重量の半分になるという。つまり半分量が、菌に消化され、発熱を伴う生命活動に用いられ、気体となってしまうのだ。この菌は、菌糸は白く綿状に成長する。そして、それは、藍の生葉を乾かしている際に、晴天が得られなかった時などにもみられる同種のものと思われる。内生か外生か定かでないが、藍の葉に生きている時から共生している菌なのであろう。切り返しを必要とすることから好気性菌なのではいうけど、酒も切り返すので、不確か。大抵の植物はそうした、落葉後の分解の相方となる菌を持っている。森林生態系ではそれが全体として繋がった世界になっている。俵を編み切り、筒状に結び合わせる。桟俵を編むための台座を、青島さん依頼通り作る。彦太郎さんが一尺の円盤の上で、藁を踏みながら、屈み手では藁を編んでいく。回る度に強力に張力をかけられながら縁が藁自身で強固になっていく。まわり、桟俵を編みきった。俵用に編まれた円筒部の端を外内に何度か折り目をつけ、内側にしまっていく。その上に桟俵を載せ、三分の太さの縄でしっかりと編んでいく。この縄は、俵を編む際に一尺毎に横糸である藁束と共に編みこまれる。彦太郎さん五〇年振りに俵を編んだと言っていた。私と同い年の頃かと思った。一方、スクモには水を重量で1.2倍量を、丁寧になじませながら入れる。馴染んだところで、発酵に必要な切り返し時の出し入れを容易にするために麻袋に入れて俵に入れるとなる。それをさらにポリバケツに入れて、大きなビニールに入った藁のすぐられたかすを入れたものに入れた。この大きなビニールには母屋の新しい薪ストーブが入っていたのかもしれない。こうして、藍を俵に入れ、すんぐるぶとんに入れたのだ。藍にあいが伝わると思うとえれなさんが言った。千晶さんから、彦太郎さんに記録ノートが手渡される。開くと、東京で昨年、一一月から一二月にかけて芸大で千晶さん史さんえれなさんが日々記録した、すくもを擦り付けた実物の色見本にもなってる記録がノートの左表から書かれており、右表からは彦太郎さんが記録するような作りになっていた。彦太郎さんは、室温を記録する為に、最高と最低気温のロガーが付いたアナログの水銀温度計を見せてくれた。中の温度はさし棒型の物を使うとのことだ。歓談後、片付けをして水道を落としガスを止める。見送ってくれる彦太郎さん夫妻は彦ハウスを背景とし、その彦ハウスはピカピカの太い煙突を空に突き出していた。カブトムシみたいと、青島さんが言った。ナベさんえれなさん千晶さん史さんは、東京に向かい、他は岳の湯に向かう。風呂場で川ちゃんに話しかけると、「冬に岳の湯は丁度いいとわかりました。今回は重要なことを掴みましたね」とかわちゃん。雨漏りの修理は難しい、畳だけでも上げてくれば良かったと青島さん。そうだ一晩薪ストーブで乾かすチャンスがあったのだ。ゆりかも、ゴミ持って帰ってくるの忘れたことを残念がっていた。精神力が勝負と言っていた。配慮が成り立たせている場の人の姿に憧憬を覚える。土を見て、過去との齟齬がざらと残る。空の色を染めようという声は、上を向かせる力がある。郷土の先人の言葉を縦糸とし、現在という時間を農に乗せて横糸として、作ろうとしているものは、活きる力を燃やす。こころふゆる冬。発酵に込める祝祭。