歓藍社は福島でのお直し活動である。いったいなにを直そうとしているのか。なかなか簡単に答えることはできない。けれども失われた何かを取り戻そうとしている。
2011年の福島原発の事故で失われたのはもちろんその電力の供給拠点だけではない。建屋が吹っ飛び、放射能が周囲に拡散して住民は避難を余儀なくされた。今もなお福島原発を中心とする半径20km圏内は人間がみだりに立ち入ることのできない空白の場所になっている。それより外の地域においても放射能の影響は甚大なものである。国主導による住居地域の除染作業が進められているが、それが事故以前の地域生活の状態に戻してくれるのかといえば決してそうとは言えない。特に、事故以後生まれてしまった福島(FUKUSHIMA)=原発事故というある種の連語、イメージは、除染作業などといった表層のスキ取りとしての体裁繕いでは到底消し去ることはできない。イメージというものはしばしばとても大きな影響力を持つものだ。イメージは人の思考を止め、時に錯誤を生み出す。錯誤は事象に対してフィルターをかけその内実を見えにくくさせ、人々の間の距離を遠ざける。私たちの思慮の範囲、想像力はそんな外からの情報によって簡単に制限されもする。私たちは自らの行動をもってそのフィルターを取り外してモノを見ることが必要だ。モノの本当の姿を探さねばならない。そして、「本当」とは一体何なのかその探求の最中に同時に考えてみる必要がある。時にはモノ「本当」の姿を作り出さねばならないのかもしれない。瓦解してしまった何かを縫い繕い、本当の姿に変えていくことも必要かもしれない。
歓藍社が活動しているのは福島県の安達太良山の裾野に位置する大玉村という場所である。およそ1世紀前、安達太良山の麓に実家があった芸術家・高村智恵子が残した言葉として、夫の光太郎が一つの詩を残している。
—
「あどけない話」:
高村光太郎 智恵子は東京に空が無いといふ、 ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、 切っても切れない むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
—
智恵子が言っていた「ほんとの空」とは何であったのだろうか。夫の光太郎にはそれがわからなかった。智恵子も果たして何が「ほんと」であったのか言葉で説明できたのかは分からない。けれども当時東京に居た智恵子は東京の空に足りないものを感じたのだろう。空の下に広がる都市の生活で得ることのできなかった何かを求めていたのだろう。自分の心にポッカリと空いてしまった穴を埋めるために、縫い戻すために安達太良山の上の青い「ほんと」の空が必要であったのである。1世紀が経ち、そして2011年に原発の事故が起こって放射能が上空に舞い上がった後の今、安達太良山の上には果たして「ほんとの空」が広がっているだろうか。今の私たちには分からない。けれども、そこに「ほんとの空」があるのだと思って、探してみようと思う。「ほんとの空」を見ることができるように自分たちの眼の曇りを自分たちの活動をもって拭きとらなければならない。
—
と言いつつ、筆者は今いささかの仕事をしにインドに滞在している。インドは暑い。とても暑い。2月だというのに35℃を優に超える。インド人はよくこんなところで暮らせるなと、普段日本に住んでいるような自分は考えてしまう。インド人は暑さに強い人種なのだと思っていた。けれどもどうやらインド人もかなり暑がっているらしく、彼らも様々に工夫を凝らして体調を管理している。クルタという体に密着しないゆったりとした服を着て風通しを良くし、塩分と糖分そしてスパイスが多く入った食事を1日に何度も食べている。建物は大きな開口を開けて常に中へ風を送り、室内ではサンダルを脱いで冷たい大理石の床に座って体を冷やす。人々が集まる広場はしばしば地面を掘り下げた場所に作って気温を下げる。気軽に野立てやパラソルを立てて、人々は太陽の動きに合わせて座る場所を動かす。些細な工夫の数々が生活の全体をなしている。そして、そうした工夫の細部は土地の気候や風土環境に密接に関係しているのだ。ある種の合理性に基づいて生まれその土地に定着したものである。食べ物のことや建物のことなど、一見関係のないそれぞれの要素はすべてその大地の環境を介して連関しているのである。私はそんな大地起源主義の考え方を推したい。
大地を起源として文化、あるいはその地域の伝統なるものが生まれるのだとしても、それは大地を気候帯毎に工学的に分断して取り扱うということでは決してない。たとえ日本のような四周を海に囲まれた島国であったとしても人々は船に乗って移動し、大陸の国々と交易を重ねてきた。大陸で得た知見や技術を島に持ち帰り、その島の気候や自分たちのこれまでの生き方に合わせて順応させその土地に根付かせてきた。仏教の普及や木造建築の技術、そして日本語などがそれである。大地は不動のものであるが、大地の上で人々が動き回り新たな要素が持ち込まれ、その大地の環境に順応して根付く。そんなことを、日本からインドへ移動している我が身を振り返ってみて考えた。
—
歓藍社に戻る。歓藍社が活動しているのは福島県の安達太良山の裾野に位置する大玉村という場所である。大玉村という名前の由来はかつての大山村と玉井村が戦後合併してできたからだ。村というにはいささか大きな領域であり、むしろ村という名前を冠した単なる行政区の名前にすぎない。かつての近世以前の村とは人々の共同体としての社会集団のまとまりを意味した。「〜〜村の○○さん」と人々が呼ばれていたように、村はその人が帰属する集団であった。村と村の区切りはあくまでも人々の集団と集団の区別であったため、領域としての、場所としての境界は必ずしも明確なものではなく、川の氾濫などによって境界は幾たびも変化し、多くの飛び地が散在して村の縄張りはしばしば複雑に入り混じるものであった。そして山や川、原野や沼地などは複数の村が共有するものとしてあり、相互の監視と随時定められた細やかなルールによってその環境が保全されていた。謂わば村の縄張りは固定されたものではなく、グレーゾーンをもって緩やかに繋ぎ合わさっていたと言える。それが明治維新以降、東京に天皇の御所が移され、中央集権型の一元管理に基づいた廃藩置県によって行政区分としての村の地理範囲がほぼ明確に定められた。それ以降、村とは人間の社会集団ではなく地域の領域的区分を指す言葉として変容した。そうした明らかな領域の確定は村間の利害関係を調停するには好都合であるが、相互監視や相互扶助の機会を失ってひどく静的で冷たい関係が生まれることがある。領域の固定化、グレーゾーンの抹消は時として他者への想像力の劣化をもたらしかねない。他者への想像力の劣化は私たちが生きて行くうえで最も恐れるべきものだろう。そして日々、その劣化を確認し、補修しなければならない。そのことを少なくとも2011年の原発事故から私たちは学んでいる。
歓藍社はお直し活動である、と冒頭で述べた。けれどもそれは事故以前の福島を取り戻すということではない。直す、というのは今あるモノに手を加えるということだ。時計の針を戻すことはできないし止めることもできない。けれども昔の姿を想い描き、そして「ほんと」の姿とは何なのかを想像しながら、今あるモノに手を加え次のモノを生み出していく。それが”直す”ということではないか、と思う。
18th Feb. 2017
佐藤研吾
インドにて