(2016 年 2 月 21 日 @ 大玉村 )
佐藤研吾です。東京大学の博士課程に在籍しており、江戸・東京の都市についての研究を始めています。また日頃は東京で設計事務所で仕事をしており、特に子供の保育園の設計をしています。そして数年前から、年に数回インドで小さな建築の大学の先生をやってもいます。
インドと日本の関わり、交流の中で個人的に注目している人物たちがいます。それはインドの詩人ラビンドラナート・タゴールと日本近代美術の発展に貢献した岡倉天心です。彼らが活動した20世紀初頭は、ちょうど先ほど林くんが話題に挙げた宮沢賢治や、トルストイ、日本でも白樺派など、都市ではない場所、農村における人間の生活のあり方の希求、探求の動きが全世界的に広がった時期でもありました。
タゴールはインド・カルカッタの民族運動勃興期の中で、政府の官司の養成機関としてあった当時の学校教育とは異なる形の教育の場を目指し、カルカッタ郊外の農村シャンティニケタンの地に小さな学校を開きました。学校設立当初はわずか先生5人、学生5人という規模でした。 タゴールのその学校は農村の将来の自立的なあり方を考え、また自然と共生する村民たちの生活を手本としながら、本来の人間の全人的な姿を希求することを基本としていました。 私のインドでの活動は、そうしたタゴールが農村との関わりの中で目指した学校から多くを学ぼうとしています。そしてここ大玉村で今始めようとしている活動も共有することの多いのではないかと考えています。
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農業からできる素朴な取り組みがあるぞという林くんの仮説に非常に関心をもちました。 2011年の震災が起きたとき自分は東京にいましたが、「何かしなきゃ」というお節介でもなんでもない気持ちの動きがあったけれども何もできずにいた自分がいました。その時、林くんが言う農業の素朴な技術の可能性を探る着眼を知って、今日この大玉村の会合に参加をしています。 水を田んぼに張ることで、土壌からの放射線を部分的に遮蔽でき水の上には低線量の空間ができるのであれば、どのようにして人が水の上に立つことができるか、とくに子どもたちの遊び場としてどのように作れるのかを建築の分野から知恵を出すことができれば、と思っています。そしてそれが上手くいけば田んぼを使った低線量の空間の創出の方法として外に発信すべきとも考えています。
また、他の休耕田の再活用として藍染のための藍の栽培を始めることができないかという話が林くんとの会話の中で生まれました。
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一方で、大玉村を訪れるようになって、ある一つの詩に出会いました。それは高村光太郎が詠った妻・千恵子がについての詩でした。高村千恵子はご存知の通り福島県の二本松の出身で、安達太良山の風景と当時彼女が暮らしていた東京の風景を比べた感傷的な詩です。
「あどけない話」:高村光太郎
智恵子は東京に空が無いといふ、
ほんとの空が見たいといふ。
私は驚いて空を見る。
桜若葉の間に在るのは、
切っても切れない
むかしなじみのきれいな空だ。
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながらいふ。
阿多多羅山の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
高村光太郎自身は千恵子がふっともらしたその言葉の意味がわからなかった。安達太良の上の空と東京の空との区別が光太郎にはわからなかった。
私が大玉村に関わりたいなと直感的に思っていたその奥にあるのは、こんな千恵子が感じたような感覚なのかなと、この詩をみつけた時に思いました。私には安達太良山、大玉村の上にほんとの空があるのかは今はわかりません。今は光太郎と同じく困惑した気持ちです。けれどもある人が「ほんとの空」があるのだと言い張っているのであれば、私はぜひそれを見てみたいなと思いました。
林くんと今日藍染の話をしていたときに、この詩を見つけたときの感覚を改めて思い出しました。安達太良の「ほんとの空」の色を、藍染の色で作れないだろうか、作ろうとしてみたいと考えました。
そんな、いくつかのことをバラバラと思いつき、突飛なことですが、農業、子供、そして土地の風景、それらの強い結びつきの重要性をだんだんと考え始めています。どれもそれぞれが独立してある事柄ではなく、それぞれが関連させて考えていくべきと考えてその取り組みを始めてみたいと思っています。
(佐藤研吾)