(佐藤研吾)土と布の可能性についての覚書

5月1日0:00 浅草ハウスへ向けて自転車を走らせる。上野をぬけて浅草までの道のりは極めて平坦な道のり。けれども墨田川流域に近づくと恐らくは暗渠なのだろうという小径があったり、そこはガクンと道が落ち込んでいたりの微細な地形をタイヤ越しに感じることができる。
0時過ぎ、浅草ハウスに到着する。すでに大玉村へ向かう人が集まっている。浅草ハウス(大塚ビル)の一階のアトリエゾーンはまただいぶ模様替えがされていた。森田さんが抜けたようである。相変わらず素早いビルである。
先月から東京芸大入学したばかりの人が二人(下村さん、荒井さん)が新たに大玉村行きのメンバーに加わる。10代でそんな知覚をもっていたのかと思うと正直羨ましい。芸大の人たちはそんな鋭い知覚と嗅覚と手足があるのが良い。
二階の居間で残っていたカレーをもらう。川田くんの実家から来たカブが入ったカブカレー。インドにいるか日本にいるかにかかわらず、かなりの頻度でカレーを食べているが、カブカレーはすごく美味しかった。ジャガイモよりもカブの方が合うな。考えてみれば他の玉ねぎ、にんじんなどもみな地面の下にあった野菜である。インドのカレーには大半が豆が入っているが豆は地上のモノだな。わからない。
1時過ぎ、上の階から渡辺さんも下りてきて、1階のロフトで寝ていた川田くんも出てきて皆で大型のバンで大玉村へ出発する。総勢8名の大所帯である。ゴールデンウイークの影響は特になく、道は空いている。
車中で一人こっそりと大玉村の会合での資料を作る。村の人に手渡しするための手紙のようなものである。そもそも今回はまだ村の人と会うのは2回目である。何も無いところからスタートをしているので突飛にならざるを得ず、どこまで伝えることができるのか分からないが、とはいえ自分のためにもこの資料作りは欠かせない。
ギリギリの時間でなんとか前回の会合の文字起こしも終える。未だ自分の考えがまとまり切らないが、時々人と話しているとフッと大事な文言が飛び出してくる。また話している相手からも思わぬ言葉が出てくる。この大玉プロジェクトは記録が肝だ。以前民俗学者の宮本常一の著書を読んだが、彼の語り口は全て伝聞調だ。各地のフィールドで出会った人々から聞いた数多の話をほぼそのまま本の中に散りばめている。彼はそれを全て筆記で記録していたそうだが、だんだんとその入力と出力の作業を同時に取り組むことのできるようになりたいものである。
二本松のコンビニで資料を印刷し、まだ雨のシトリと降る朝8時頃、大玉村の野内彦太郎さんの彦ハウスへ。彦ハウスはかなり大きい民家である。築220年と聞いた。入り口の土間に続けて囲炉裏がある。敷居の高さは50cmだろうか。上がった畳間の、鴨居を兼ねた梁下の高さは驚くほど低い。建具は今はもう取り払われているが、高さは175cm程度しかない。それでいて屋根裏は黒く、暗い。これが民家の異形さである。我々の周りにはこういったものが無いのが残念でたまらない。
彦太郎さんに会う。新しい人の紹介。その後机を押入れから取り出して皆で座る。夜通しの移動で皆ボケッとしていると、なんと豆オニギリをいただいた。大玉村で食べるものはなんでもうまい。
その後チラチラと、村の人が集まってくる。彦太郎さんが村の人へ広く声をかけてくれていた。ありがたい。前回に比べてこちらの人数も増えたが、村の人の数も増えたのが何よりも嬉しかった。中には藍染をしている人もいてとても心強い。
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10時頃、村の参加者が全員揃ったところで会が始まる。まずは双方の参加者の自己紹介。こちらは建築か芸術の道に進もうとしている人たちばかりであるが、話を聞いてみるとやはり皆考えていることは全然違う。村の人はみな農家のベテランの方々ばかりである。ある程度藍がどうやったら育つのか、初めての植物なのにおおよそ勘付いているように見受けられた。藍の青葉染をしたストールを持参してきた人もいた。水色とはいわない、水色よりももっと光のある色なのが印象的だった。南相馬から震災で大玉村に避難してきたという人がおり、その方はすでに藍を栽培して藍染を実践されていた。周りの村の参加者の人は初対面であったようだが、皆何かを育てるとなると途端にその話(段取りというか、栽培のコツというか)を共有する。農家の人々の情報、知恵というのはこういう形で伝わっていくものなのかとも思った。そういうわけでおそらくは皆農業学校などには通う必要がなかったのだろう。

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自己紹介が一回りしたところで藍の種蒔き始まる。彦太郎さんが民家の軒下にすでにトレイを並べてくれている。128口のプラスチックの黒色トレイ。前の現場で天井材として検討したのを思い出した。あれは草屋根を載せ、また主構造でもあった鉄骨の有機的造形があっての思いついたものに過ぎなかった(結局、質感と色からリンゴのトレイを選んだのであるが)。農家の人々に接してみてはじめて彼らの道具の扱い方、工夫のあり方(たとえ現代の工業製品であったとしても)を、彼らの仕草の端々から感じることができる。

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個人的なものも含めて、この大玉村でのプロジェクトにはいくつか位相が並存していると考えている。
福島第一原子力発電所の事故によって広がった放射能被害に対する水を用いた遮蔽効果の測定。村内の休耕田の増加に対応した新しい産業の探求と実践(藍染がこれである)。藍染を発展させた様々な創作活動の拠点作り。農業、農家の人々の「生活」に関わる民俗学的研究(これはR・タゴール、宮沢賢治につながっていく)。安達太良山を心の拠り所にした里山生活についての地域研究(都市史的アプローチがあり得る)。
どこまでできるか分からないが、精一杯頑張りたい。このプロジェクトには自分に今の興味と憧れが強く傾倒していると感じられるからでもある。

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まず肥料を含む土をトレイの8分か9分ほど盛り敷き、水をかけたのちに指で5mmほどの深さに凹みを作る。そこに藍の種を2粒ずつ蒔いていき、最後に土を少し載せる。総勢20名弱で仕事したため30分ほどで終了する。
12時前、皆で昼食となる。山菜を使った様々な料理が並ぶ。フキノトウの酢物がおいしかった。
昼食後、しばらく談笑の後、再びこちらからの発表の時間をもらう。
メンバーの中の4,5人がそれぞれ準備してきたものを発表する。林くんは最近の自身の研究、「水による放射線遮蔽効果の応用事例紹介」について発表。特にラジウムの濃度数値が先日の熊本地震の直前に上がったことを指摘し、地殻変動というマクロなスケールと、極小スケールを繋ぐ視点を説明。これが何か創作の次元に応用できるとより面白くなるなと個人的には考えている。何か良い筋道はないかと考え込んでいる。大玉村プロジェクトの活動の始まりはもちろん、2011年3月の福島第一原子力発電所の事故によってもたらされた土壌汚染に対する取り組みからである。建築、とは言わないがなにかモノを作ることは、あるいはそうした人間はこの現代の人間社会が世界規模で抱える大きな問題に対してなす術を持たないのか?いや、そうではない、何かは必ずあるはずだ。この不確定な前進が大玉プロジェクトの肝である。だからこそ少しずつではあるが様々な人を巻き込み出している。
続いて国枝くんの発表。自己紹介も兼ねた集落調査とアジアでの仕事から見つけた原初的な家の環境機能と、大学施設の設計における学びの場のあり方についての発表。私は国枝くんに最近はほとんど会っていなかったが、今考えようとしている対象が近しいのに少し驚く。
続いて自分の発表。村の外からと、村の中から人が集まって話し合うこの場所自体がまず大事なことであると述べる。そしてこの地縁に必ずしも拠らない集団を「学校」という共同体として考えてみるのはどうかと提言する。提言といっても何かが今すぐ進む訳ではないが、とにかくこの異種の人間たちが集まったこの場についての新たな言葉が必要だと感じた。次回どこまで考えと行動を進められるかが重要である。とりあえず種まきから始まったが藍の成長とともに我々の考えも育てなければ、ただの園芸趣味にしかならないのである。
最後に渡辺さんが発表した。渡辺さんは東京ですでに藍染めを試みて幾つかの模様の布と、カバンの試作を見せてくれた。カバンは見たコトの無い形をしていて、内側と外側が切れ目なく繋がっていて(縫い目はあるが)、生地が厚いのでその表地と裏地の間に空間がドーナツのようにあるのがその独特な形を作り出しているようである。渡辺さんの作品を見て、やはり布というか、糸の集合体が持つ大きな可能性を感じた。これをどうにか自分も取り入れることができないだろうか。
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彦ハウスでの会議を終え、村の人たちと別れる。その後藍の苗を植え替える予定の畑へ。彦太郎さんの家の裏山の小径を抜けて山を登り、墓地の手前の一角の畑を用意していただいた。横には彦太郎さんが設計した給水塔が建っている。自分は剛平くんの犬の麦を連れて周辺を歩き回る。山では色々な匂いが入り混じっている。都市の人間には到底捉えきれないのであろう、無数の生き物の気配である。人間の歴史においては、狩猟民、採民、そして農耕民たちの交易の場として都市が生まれたとも言われている。しかし、そのような多様性が果たして現代の都市にあるのだろうか?交通と情報伝達の発達によって、人とモノの移動の径は莫大に増加したが、同時に資本と貨幣の過剰集中を伴った都市内の経済は極めて画一的ないし固定的な動きしかしていないのではないだろうか。自分の身を東京から離してみてようやく考えられる印象でもあるやもしれない。
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東京への帰りの車中、幾つかの会話をした。渡辺さんと話した衣服と建築の違いについての話が記憶に残っている。先ほどの糸の集合体の可能性と似たようなある種の憧憬が私は衣服に対してある。衣服は人の身体に依り、建築は地面に依存する。建築の始まりは洞窟か、あるいは小屋(特に林の中の木に屋根を載せた形)か、の議論があるが、どちらも地面=地球との関係はそれを「建築」として対象化することができないほどに地面との境目は無い。その建築の原初の形式の再生が必要であると感じている。
一方で、飛躍した直感ではあるが、地面に依存しない建築もまた在り得るだろう。その原初の姿が船であるやもしれない。少なくとも雨風などの地上の天候・気候に対しては建築はある皮膜を纏い、船が水の上に浮くように存在している。なんにせよ、そんな建築の姿をこの大玉村では追ってみるつもりである。

2016年5月4日
佐藤研吾